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<title>西川こぼれ話</title>
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<description>西川こぼれ話</description>
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<item rdf:about="https://nishikawabunkazaidan.or.jp/business/koborebanashi/2026/122441/">
<title>01-01／本店「山形屋」</title>
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<description>
&#160;　１５８５（天正１３）年８月、豊臣秀吉の甥・秀次は、長曾我部征伐の功により、近江八幡山に封ぜられた。秀次は、直ちに八幡山城の構築に取り掛かるとともに、城下を区画して安土城下の人々を移住させて町をつくった。築城の折に、初代西川仁右衛門は大工組と称して工務監督を務めている。
　翌１５８６（天正１４）年６月には、八幡町に掟書が発せられた。それには「当町中、楽市として申し付くる上は、諸座諸役諸公事（諸税）は、ことごとく免許のこと」と、いわゆる楽市楽座（営業の自由）の方針が宣言されている。
　このような革新的な機運のさなかにあって、初代仁右衛門は、１５８７（天正１５）年、八幡町に店を設け、本格的な活動を開始した。これが西川家の本店山形屋のおこりである。
　（２０１６年１月西川文化財団発行「西川４５０年史」より）
　「山形屋」という名前の由来に関する記録は残念ながら遺っていませんが、「山形屋」という屋号は本店設置以後長い間使われてきました。いつまで使われてきたのかという記録もこれまた不明ですが、１９３２（昭和７）年の商品パンフレットには「西川甚五郎商店」との記載を見ることができます（下の写真）。ちなみに、西川の商標が制定されたのは１９２９（昭和４）年のことになります。





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<dc:date>2026-07-10T14:00:00+09:00</dc:date>
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<p>&#160;　１５８５（天正１３）年８月、豊臣秀吉の甥・秀次は、長曾我部征伐の功により、近江八幡山に封ぜられた。秀次は、直ちに八幡山城の構築に取り掛かるとともに、城下を区画して安土城下の人々を移住させて町をつくった。築城の折に、初代西川仁右衛門は大工組と称して工務監督を務めている。</p>
<p>　翌１５８６（天正１４）年６月には、八幡町に掟書が発せられた。それには「当町中、楽市として申し付くる上は、諸座諸役諸公事（諸税）は、ことごとく免許のこと」と、いわゆる楽市楽座（営業の自由）の方針が宣言されている。</p>
<p>　このような革新的な機運のさなかにあって、初代仁右衛門は、１５８７（天正１５）年、八幡町に店を設け、本格的な活動を開始した。これが西川家の本店<img width="30" height="16" src="https://nishikawabunkazaidan.or.jp/images/image-1c38f14eb90de919b55b3ad8461aa419.png" class="WACImage SCXW126282298 BCX8" unselectable="on" style="-webkit-user-drag: none; -webkit-tap-highlight-color: transparent; margin: 0px; padding: 0px; user-select: text; border-width: medium; vertical-align: baseline; color: rgb(0, 0, 0); font-family: &#34;Meiryo UI&#34;, &#34;MS UI Gothic&#34;, &#34;MS PGothic&#34;, &#34;MS Gothic&#34;, sans-serif; font-size: 12px; text-align: justify; white-space: pre !important;" alt="" />山形屋のおこりである。</p>
<p>　（２０１６年１月西川文化財団発行「西川４５０年史」より）</p>
<p>　「山形屋」という名前の由来に関する記録は残念ながら遺っていませんが、「山形屋」という屋号は本店設置以後長い間使われてきました。いつまで使われてきたのかという記録もこれまた不明ですが、１９３２（昭和７）年の商品パンフレットには「<img width="30" height="16" src="https://nishikawabunkazaidan.or.jp/images/image-1c38f14eb90de919b55b3ad8461aa419.png" class="WACImage SCXW126282298 BCX8" unselectable="on" style="-webkit-user-drag: none; -webkit-tap-highlight-color: transparent; margin: 0px; padding: 0px; user-select: text; border-width: medium; vertical-align: baseline; color: rgb(0, 0, 0); font-family: &#34;Meiryo UI&#34;, &#34;MS UI Gothic&#34;, &#34;MS PGothic&#34;, &#34;MS Gothic&#34;, sans-serif; font-size: 12px; text-align: justify; white-space: pre !important;" alt="" />西川甚五郎商店」との記載を見ることができます（下の写真）。ちなみに、西川の商標<img src="https://nishikawabunkazaidan.or.jp/images/image-82c92d509ef0f515637142eb0a310524.png" alt="" />が制定されたのは１９２９（昭和４）年のことになります。</p>
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<div class="lay-row">
<div class="cparts-img-block lay-img-width--max lay-col12-xs-12"><img id="cms-editor-image-sin178366367975514400" class="cparts-editsite--img cms-easy-edit" alt="" src="https://nishikawabunkazaidan.or.jp/images/koborebanashi/image00002.jpg" width="675" /></div>
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<item rdf:about="https://nishikawabunkazaidan.or.jp/business/koborebanashi/2026/122437/">
<title>12-02／道標が当家にあるヒミツ　～１２代目の日記より～</title>
<link>https://nishikawabunkazaidan.or.jp/business/koborebanashi/2026/122437/</link>
<description>　西川甚五郎邸の庭に一つの道標があります。 　ご存じのとおり、「道標」は街道の分岐点等に立てられ、目的地までの方向や距離、道順を示すもので、旅人にとっては無くてはならないものです。そんな大切な道標が個人宅にあることが不思議ではありませんか？ 　その謎を解くカギは１２代目西川甚五郎の日記（下の写真）にありました。１２代目は３０余冊の日記を遺していて、それらは当時のことが窺い知れる貴重な史料となっています。 　昭和２年５月２５日の日記には次のように記載されています。「午後１時より八幡町役場にて八幡神社鳥居前角にありし道志るべ立石　道路標識　高５尺２寸　巾８寸角　壱基　『右京道／左かんおん寺／長命寺道』　享保２年２百年前の石　右本日入札により　金７２円５０銭落札により買受たり」 ※注：　高５尺２寸＝約１５７CM、巾８寸＝約２４CM 　現代に生きる者の感覚として&#8221;公共物と思える&#8221;道標が、売買や入札の対象となることは考え難いのですが、昭和２年当時は一般的なことだったのですね。




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<div id="cms-editor-minieditor-sin178295375239390800" class="cms-content-parts-sin178295375239393800"><p>　西川甚五郎邸の庭に一つの道標があります。</p> <p>　ご存じのとおり、「道標」は街道の分岐点等に立てられ、目的地までの方向や距離、道順を示すもので、旅人にとっては無くてはならないものです。そんな大切な道標が個人宅にあることが不思議ではありませんか？</p> <p>　その謎を解くカギは１２代目西川甚五郎の日記（下の写真）にありました。１２代目は３０余冊の日記を遺していて、それらは当時のことが窺い知れる貴重な史料となっています。</p> <p>　昭和２年５月２５日の日記には次のように記載されています。「午後１時より八幡町役場にて八幡神社鳥居前角にありし道志るべ立石　道路標識　高５尺２寸　巾８寸角　壱基　『右京道／左かんおん寺／長命寺道』　享保２年２百年前の石　右本日入札により　金７２円５０銭落札により買受たり」</p> <p>※注：　高５尺２寸＝約１５７CM、巾８寸＝約２４CM</p> <p>　現代に生きる者の感覚として&#8221;公共物と思える&#8221;道標が、売買や入札の対象となることは考え難いのですが、昭和２年当時は一般的なことだったのですね。</p></div>
<div class="cms-content-parts-sin178365670652900800 box cparts-id403--01 lay-margin-b--3" data-selectable="cparts-animate cparts-animate--slideInUp:上へスライド,cparts-animate cparts-animate--slideInDown:下へスライド,cparts-animate cparts-animate--slideInLeft:左へスライド,cparts-animate cparts-animate--slideInRight:右へスライド">
<div class="lay-row">
<div class="cparts-img-block lay-img-width--max lay-col12-xs-12"><img id="cms-editor-image-sin178365670652904200" class="cparts-editsite--img cms-easy-edit" alt="" src="https://nishikawabunkazaidan.or.jp/images/koborebanashi/image00001.jpg" width="675" /></div>
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<item rdf:about="https://nishikawabunkazaidan.or.jp/business/koborebanashi/2026/122429/">
<title>11-01／大根一把を喜ぶ　～１１代目西川甚五郎の逸話～</title>
<link>https://nishikawabunkazaidan.or.jp/business/koborebanashi/2026/122429/</link>
<description>
　「ふとんの西川」でお馴染みの西川ですが、１５６６（永禄９）年の創業以来、永年の主力商品は「蚊帳」や「畳表」でした。その取扱い品に「ふとん」が加わったのは、１９８７（明治２０）年のことです。それまで「ふとん」は買うものではなく、自家で作るものでした。それを商品化したことは画期的なことであったに違いありません。
※下の写真は、ふとんの取扱いを始めた当時の広告です。
　当時の当主は１１代目西川甚五郎。１１代目は１８４８（嘉永元）年に生まれ、５歳のときに父である１０代目が３２歳の若さで早逝したため家督を相続しました（祖父である９代目が後見した）。その年（嘉永６年）はペリーが黒船で来航した年で、一般的にはこの事件から「幕末」は始まったと言われています。１１代目は、幕末から明治に至る日本の大変革期に家業の発展に尽力しました。
　その１１代目には次のような逸話が残されています。　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　「親戚や知人から、時どき滅多に手に入らない珍味が寄せられることがあります。大変感謝しているものの、内心は却って大根を一把（ひとたば）頂く方がうれしいのです。なぜなら、珍味は私一人が口にするだけで数十人の家人と分けて賞味できません。大根一把なら、一家の夕食に供して皆で食べてその恵みに感謝することができますから」
　西川家には、７代目西川利助が作った「三ツ割銀制度」がありました。これは、年２回の決算ででた純益の三分の一を奉公人に分配したもので、現在のボーナス制度とも言われています。奉公人のやる気を引き出すとともに、幸せをともに分かち合うという精神が込められています。１１代目の話にも、この心が語られていました。
（平成２２年９月１４日財団法人藤井協成会発行『語り継がれる近江商人エピソードⅠ』より）





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<dc:date>2026-06-30T09:00:00+09:00</dc:date>
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<p>　「ふとんの西川」でお馴染みの西川ですが、１５６６（永禄９）年の創業以来、永年の主力商品は「蚊帳」や「畳表」でした。その取扱い品に「ふとん」が加わったのは、１９８７（明治２０）年のことです。それまで「ふとん」は買うものではなく、自家で作るものでした。それを商品化したことは画期的なことであったに違いありません。</p>
<p>※下の写真は、ふとんの取扱いを始めた当時の広告です。</p>
<p>　当時の当主は１１代目西川甚五郎。１１代目は１８４８（嘉永元）年に生まれ、５歳のときに父である１０代目が３２歳の若さで早逝したため家督を相続しました（祖父である９代目が後見した）。その年（嘉永６年）はペリーが黒船で来航した年で、一般的にはこの事件から「幕末」は始まったと言われています。１１代目は、幕末から明治に至る日本の大変革期に家業の発展に尽力しました。</p>
<p>　その１１代目には次のような逸話が残されています。　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　「親戚や知人から、時どき滅多に手に入らない珍味が寄せられることがあります。大変感謝しているものの、内心は却って大根を一把（ひとたば）頂く方がうれしいのです。なぜなら、珍味は私一人が口にするだけで数十人の家人と分けて賞味できません。大根一把なら、一家の夕食に供して皆で食べてその恵みに感謝することができますから」</p>
<p>　西川家には、７代目西川利助が作った「三ツ割銀制度」がありました。これは、年２回の決算ででた純益の三分の一を奉公人に分配したもので、現在のボーナス制度とも言われています。奉公人のやる気を引き出すとともに、幸せをともに分かち合うという精神が込められています。１１代目の話にも、この心が語られていました。</p>
<p>（平成２２年９月１４日財団法人藤井協成会発行『語り継がれる近江商人エピソードⅠ』より）</p>
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<div class="lay-row">
<div class="cparts-img-block lay-img-width--max lay-col12-xs-12"><img id="cms-editor-image-sin178245089314165600" class="cparts-editsite--img cms-easy-edit" alt="2-05_蒲団の取り扱い開始広告" src="https://nishikawabunkazaidan.or.jp/images/koborebanashi/images2026062614154732.png" width="675" /></div>
</div>
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<item rdf:about="https://nishikawabunkazaidan.or.jp/business/koborebanashi/2026/122428/">
<title>02-02／大ヒットのヒミツ　～萌黄の蚊帳の販売手法～</title>
<link>https://nishikawabunkazaidan.or.jp/business/koborebanashi/2026/122428/</link>
<description>
　萌黄色に染められた蚊帳の江戸市中における営業ぶりは、『守貞漫稿』（大阪の町人・喜田川守貞が江戸時代の上方、江戸の風俗を見聞や文献考証によって著した書)によると、次のようであった。
&#160;　近江の商人で、日本橋通一丁目などに出店を構えて、もっぱら近江産の畳表や蚊帳などの類を売る店があった。この店では手代を売人にしたて、雇夫に蟵（かや）を担わせて市中を商いさせていた。その服装は両人とも菅笠をかぶり、雇夫はいつも新しい半天を着て、蚊帳をいれた紙張の籠を担っていた。雇夫には、特に美声の者を選び、数日間、売り言葉を練習させてから商いに就かせた。
　♪萌黄ノカヤァ
と声長く唱えるうちに、半町（約５４メートル）も歩を運ぶほどの長い売り声であった。
（２０１６年１月西川文化財団発行「西川４５０年史」より）







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<p>　萌黄色に染められた蚊帳の江戸市中における営業ぶりは、『守貞漫稿』（大阪の町人・喜田川守貞が江戸時代の上方、江戸の風俗を見聞や文献考証によって著した書)によると、次のようであった。</p>
<p>&#160;　近江の商人で、日本橋通一丁目などに出店を構えて、もっぱら近江産の畳表や蚊帳などの類を売る店があった。この店では手代を売人にしたて、雇夫に蟵（かや）を担わせて市中を商いさせていた。その服装は両人とも菅笠をかぶり、雇夫はいつも新しい半天を着て、蚊帳をいれた紙張の籠を担っていた。雇夫には、特に美声の者を選び、数日間、売り言葉を練習させてから商いに就かせた。</p>
<p>　♪萌黄ノカヤァ</p>
<p>と声長く唱えるうちに、半町（約５４メートル）も歩を運ぶほどの長い売り声であった。</p>
<p>（２０１６年１月西川文化財団発行「西川４５０年史」より）</p>
<p><img src="https://nishikawabunkazaidan.or.jp/images/image-3760d2829da261e4d6099549ad23fdc4.png" alt="" /></p>
<p></p>
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<div class="cparts-img-block lay-img-width--max lay-col12-xs-12"><img id="cms-editor-image-sin178228764286772300" class="cparts-editsite--img cms-easy-edit" alt="" src="https://nishikawabunkazaidan.or.jp/images/koborebanashi/image-3760d2829da261e4d6099549ad23fdc4.png" width="675" /></div>
</div>
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<item rdf:about="https://nishikawabunkazaidan.or.jp/business/koborebanashi/2026/122427/">
<title>02-01／２代目が創案した萌黄蚊帳　～箱根越えの「夢の啓示」～</title>
<link>https://nishikawabunkazaidan.or.jp/business/koborebanashi/2026/122427/</link>
<description>
&#160;　２代目甚五が箱根越えをしていた折、疲れきった体を休めようと木陰に身を横たえた。その時、緑色のつたかずらが一面に広がる野原にいる夢を見る。つたかずらの若葉の色が目に映えて、まるで仙境にいるようだったという。「涼味あふれる緑に囲まれたシーンを目にすれば、蚊帳の中にいる人の気持ちを和ませ、爽快な気持ちにさせるであろう」と考え、このイメージを蚊帳に再現。萌黄色に染められ、紅色の縁取りを施されて、登場したのである。この近江蚊帳誕生のエピソードは、近江の歴史を語るいくつかの資料に記載され、語り継がれている。
（２０１６年１月西川文化財団発行「西川４５０年史」より）







</description>
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<div id="cms-editor-minieditor-sin178228401029713200" class="cms-content-parts-sin178228401029724800">
<p>&#160;　２代目甚五が箱根越えをしていた折、疲れきった体を休めようと木陰に身を横たえた。その時、緑色のつたかずらが一面に広がる野原にいる夢を見る。つたかずらの若葉の色が目に映えて、まるで仙境にいるようだったという。「涼味あふれる緑に囲まれたシーンを目にすれば、蚊帳の中にいる人の気持ちを和ませ、爽快な気持ちにさせるであろう」と考え、このイメージを蚊帳に再現。萌黄色に染められ、紅色の縁取りを施されて、登場したのである。この近江蚊帳誕生のエピソードは、近江の歴史を語るいくつかの資料に記載され、語り継がれている。</p>
<p><span style="color: rgb(60, 60, 60); font-family: 游明朝体, &#34;Yu Mincho&#34;, YuMincho, &#34;Hiragino Kaku Gothic ProN&#34;, &#34;Hiragino Kaku Gothic Pro&#34;, メイリオ, Meiryo, &#34;ＭＳ ゴシック&#34;, sans-serif; font-size: 18px;">（２０１６年１月西川文化財団発行「西川４５０年史」より）</span><img src="https://nishikawabunkazaidan.or.jp/images/image-1c31e7c2ab298f215048d1c11f768705.png" alt="" /></p>
<p></p>
<p></p>
</div>
<div class="cms-content-parts-sin178228497806768100 box cparts-id403--01 lay-margin-b--3" data-selectable="cparts-animate cparts-animate--slideInUp:上へスライド,cparts-animate cparts-animate--slideInDown:下へスライド,cparts-animate cparts-animate--slideInLeft:左へスライド,cparts-animate cparts-animate--slideInRight:右へスライド">
<div class="lay-row">
<div class="cparts-img-block lay-img-width--max lay-col12-xs-12"><img id="cms-editor-image-sin178228497806772400" class="cparts-editsite--img cms-easy-edit" alt="" src="https://nishikawabunkazaidan.or.jp/images/koborebanashi/image-1c31e7c2ab298f215048d1c11f768705.png" width="675" /></div>
</div>
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<item rdf:about="https://nishikawabunkazaidan.or.jp/business/koborebanashi/2026/122426/">
<title>07-01／江戸の火事と西川家の積立金制度</title>
<link>https://nishikawabunkazaidan.or.jp/business/koborebanashi/2026/122426/</link>
<description>
&#160;　江戸時代を通じて２００余りの火事があった。中でも１６５７（明暦３）年の振袖火事（明暦の大火）、１７７２（明和９）年の目黒大円寺よりの出火、１８０６（文化３）年の芝車町からの出火は特に大きく、江戸の三大火と呼ばれている。
　明暦の大火以降、幕府も消火、消防制度の確立に努力し、旗本、与力、同心による定火消のほかに、譜代大名より出す方角火消、外様大名より出す大名火消などが付け加えられた。１８世紀初頭の正徳、享保時代には、トビ人足よりなる４８組の町火消ができ、武家火消と先陣を争う光景が見られるようになった。
　江戸の商店は再々の火災に悩まされ、西川の店、店ともに例外ではなく、度々被害に遭っている。当時は、災害に対して保険制度などないため、その復旧費用は全面的に被災者の負担となる。西川家では、このような不時の出費に備えるための工夫として、積立金制度を整えてきた。

（２０１６年１月西川文化財団発行「西川４５０年史」より）





</description>
<dc:creator></dc:creator>
<dc:subject></dc:subject>
<dc:date>2026-06-30T09:00:00+09:00</dc:date>
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<p>&#160;　江戸時代を通じて２００余りの火事があった。中でも１６５７（明暦３）年の振袖火事（明暦の大火）、１７７２（明和９）年の目黒大円寺よりの出火、１８０６（文化３）年の芝車町からの出火は特に大きく、江戸の三大火と呼ばれている。</p>
<p>　明暦の大火以降、幕府も消火、消防制度の確立に努力し、旗本、与力、同心による定火消のほかに、譜代大名より出す方角火消、外様大名より出す大名火消などが付け加えられた。１８世紀初頭の正徳、享保時代には、トビ人足よりなる４８組の町火消ができ、武家火消と先陣を争う光景が見られるようになった。</p>
<p>　江戸の商店は再々の火災に悩まされ、西川の<img src="https://nishikawabunkazaidan.or.jp/images/business/histroy_1615.png" width="17" height="19" alt="" style="color: rgb(51, 51, 51); font-family: &#34;Helvetica Neue&#34;, Helvetica, Arial, sans-serif; font-size: 14px;" />店、<img src="https://nishikawabunkazaidan.or.jp/images/business/histroy_1741.png" width="17" height="19" alt="" style="color: rgb(51, 51, 51); font-family: &#34;Helvetica Neue&#34;, Helvetica, Arial, sans-serif; font-size: 14px;" />店ともに例外ではなく、度々被害に遭っている。当時は、災害に対して保険制度などないため、その復旧費用は全面的に被災者の負担となる。西川家では、このような不時の出費に備えるための工夫として、積立金制度を整えてきた。</p>
<p></p>
<p>（２０１６年１月西川文化財団発行「西川４５０年史」より）</p>
</div>
<div class="cms-content-parts-sin178226730734891600 box cparts-id403--01 lay-margin-b--3" data-selectable="cparts-animate cparts-animate--slideInUp:上へスライド,cparts-animate cparts-animate--slideInDown:下へスライド,cparts-animate cparts-animate--slideInLeft:左へスライド,cparts-animate cparts-animate--slideInRight:右へスライド">
<div class="lay-row">
<div class="cparts-img-block lay-img-width--max lay-col12-xs-12"><img id="cms-editor-image-sin178226730734897600" class="cparts-editsite--img cms-easy-edit" alt="" src="https://nishikawabunkazaidan.or.jp/images/koborebanashi/image-6f8d3d6bd560cbb705d49bae446bbcde.png" width="675" /></div>
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<item rdf:about="https://nishikawabunkazaidan.or.jp/business/koborebanashi/2026/122417/">
<title>11-02／西川家の地域貢献　～八幡文庫と西川文庫（１１代目西川甚五郎）～</title>
<link>https://nishikawabunkazaidan.or.jp/business/koborebanashi/2026/122417/</link>
<description>
&#160;　近江八幡市立近江八幡図書館の前身、八幡文庫は明治３７（１９０４）年に設置されました。
　八幡文庫は、青年たちの読書に対する関心の強化や「品位を高尚ならしむる」役割のほか、（利用者の）職業上の調査研究の役割が想定されていました。
　明治４４年の文庫利用者は、「官吏（＝公務員）」が一番多く１８２人で、次に「実業（家）」が８２人、ほか「教員」が７０人、「学生」６５人、「僧侶」が２８人と続きます。
　蔵書は明治４２年段階で５９００冊あり、歴史書が１３５１冊で最も多く、ほか文学書や法律関係書が配架されていました。蔵書のうち、２１．９％が寄贈書でした。
　寄贈者は、蒲生郡長で滋賀県師範学校長の遠藤宗義氏や、八幡町出身で東京帝室博物館（現在の東京国立博物館）学芸部長の野間清六氏などといった文化・教育関係者のほか、１１代目西川甚五郎も名を連ねていました。
　１１代目西川甚五郎は、八幡町だけでなく、明治３４年に移転してきた滋賀県立商業学校（現在の八幡商業高等学校）にも図書４７部（１５６３冊）と、図書購入費として５００円を寄付したと伝わります。八幡商業高等学校の同窓会館の書庫には「西川文庫」と称された１１代目西川甚五郎寄贈の図書が大切に保存されています。
（平成２４年３月近江八幡市発行『近江八幡の歴史』第５巻、平成３１年３月近江八幡市発行『近江八幡の歴史』第８巻より）





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<dc:date>2026-06-30T09:00:00+09:00</dc:date>
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<p>&#160;　近江八幡市立近江八幡図書館の前身、八幡文庫は明治３７（１９０４）年に設置されました。</p>
<p>　八幡文庫は、青年たちの読書に対する関心の強化や「品位を高尚ならしむる」役割のほか、（利用者の）職業上の調査研究の役割が想定されていました。</p>
<p>　明治４４年の文庫利用者は、「官吏（＝公務員）」が一番多く１８２人で、次に「実業（家）」が８２人、ほか「教員」が７０人、「学生」６５人、「僧侶」が２８人と続きます。</p>
<p>　蔵書は明治４２年段階で５９００冊あり、歴史書が１３５１冊で最も多く、ほか文学書や法律関係書が配架されていました。蔵書のうち、２１．９％が寄贈書でした。</p>
<p>　寄贈者は、蒲生郡長で滋賀県師範学校長の遠藤宗義氏や、八幡町出身で東京帝室博物館（現在の東京国立博物館）学芸部長の野間清六氏などといった文化・教育関係者のほか、１１代目西川甚五郎も名を連ねていました。</p>
<p>　１１代目西川甚五郎は、八幡町だけでなく、明治３４年に移転してきた滋賀県立商業学校（現在の八幡商業高等学校）にも図書４７部（１５６３冊）と、図書購入費として５００円を寄付したと伝わります。八幡商業高等学校の同窓会館の書庫には「西川文庫」と称された１１代目西川甚五郎寄贈の図書が大切に保存されています。</p>
<p>（平成２４年３月近江八幡市発行『近江八幡の歴史』第５巻、平成３１年３月近江八幡市発行『近江八幡の歴史』第８巻より）<img src="https://nishikawabunkazaidan.or.jp/images/image-734bc877cc04a0efe5be7ccfcb4037e8.png" alt="" /></p>
</div>
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<div class="lay-row">
<div class="cparts-img-block lay-img-width--max lay-col12-xs-12"><img id="cms-editor-image-sin178278814135240600" class="cparts-editsite--img cms-easy-edit" alt="写真39-1　八幡文庫および西川甚五郎寄贈の蔵書印(甚五郎印)" src="https://nishikawabunkazaidan.or.jp/images/koborebanashi/images2026063011481962.JPG" width="675" /></div>
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</item>

<item rdf:about="https://nishikawabunkazaidan.or.jp/business/koborebanashi/2026/122286/">
<title>11-03／西川家の地域貢献　～小学校の開校（１１代目西川甚五郎）～</title>
<link>https://nishikawabunkazaidan.or.jp/business/koborebanashi/2026/122286/</link>
<description>
　明治６（１８７３）年、東西２つの行政区に分かれていた八幡町では、同年４月１日に２つの小学校が開校しました。八幡東・八幡西学校と称された両校の設立は、八幡町在住の近江商人（八幡商人）の篤志によるものです。
　篤志については金銭的援助だけではありませんでした。１１代目西川甚五郎をはじめとする篤志家の人びとは、首座教員（＝校長）を東京師範学校から、訓導（＝指導教員）には滋賀県師範学校の卒業生を高い給金で招聘して、近代的教授法を身につけた教員による授業を子弟に受けさせようとしました。
　１１代目西川甚五郎が特に熱心であったのは、校舎の新築造営です。学校開校の３年後の明治９（１８７６）年に八幡東学校の新築造営を決定すると、１１代目西川甚五郎は首座教員（＝校長）を引き連れ京阪地方の校舎を視察し、擬洋風建築の校舎設立を決定しました。
　明治１０（１８７７）年に建築された新校舎は、モダンな造りで、開校式に出席した滋賀県権令（＝県知事）籠手田安定（こてだやすさだ）は、その荘厳さと八幡町の教育にかける思いを称賛しました。同校舎はその後、修復等を繰り返し、その面影を残しつつ、日牟禮八幡宮鳥居前に現存（建物は登録文化財）し、「白雲館」という名前で、近江八幡の観光案内所として機能しています。
（平成３１年３月近江八幡市発行『近江八幡の歴史』第８巻より）





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<dc:date>2026-06-30T09:00:00+09:00</dc:date>
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<p>　明治６（１８７３）年、東西２つの行政区に分かれていた八幡町では、同年４月１日に２つの小学校が開校しました。八幡東・八幡西学校と称された両校の設立は、八幡町在住の近江商人（八幡商人）の篤志によるものです。</p>
<p>　篤志については金銭的援助だけではありませんでした。１１代目西川甚五郎をはじめとする篤志家の人びとは、首座教員（＝校長）を東京師範学校から、訓導（＝指導教員）には滋賀県師範学校の卒業生を高い給金で招聘して、近代的教授法を身につけた教員による授業を子弟に受けさせようとしました。</p>
<p>　１１代目西川甚五郎が特に熱心であったのは、校舎の新築造営です。学校開校の３年後の明治９（１８７６）年に八幡東学校の新築造営を決定すると、１１代目西川甚五郎は首座教員（＝校長）を引き連れ京阪地方の校舎を視察し、擬洋風建築の校舎設立を決定しました。</p>
<p>　明治１０（１８７７）年に建築された新校舎は、モダンな造りで、開校式に出席した滋賀県権令（＝県知事）籠手田安定（こてだやすさだ）は、その荘厳さと八幡町の教育にかける思いを称賛しました。同校舎はその後、修復等を繰り返し、その面影を残しつつ、日牟禮八幡宮鳥居前に現存（建物は登録文化財）し、「白雲館」という名前で、近江八幡の観光案内所として機能しています。</p>
<p>（平成３１年３月近江八幡市発行『近江八幡の歴史』第８巻より）</p>
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<div class="lay-row">
<div class="cparts-img-block lay-img-width--max lay-col12-xs-12"><img id="cms-editor-image-sin178279410084241900" class="cparts-editsite--img cms-easy-edit" alt="3-06_旧八幡東学校校舎（現在の白雲館）" src="https://nishikawabunkazaidan.or.jp/images/koborebanashi/images2026063013343563.JPG" width="675" /></div>
</div>
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<item rdf:about="https://nishikawabunkazaidan.or.jp/business/koborebanashi/2026/122284/">
<title>12-01／６７歳の誕生日に際して滋賀銀行の株式を役職員に譲り渡した１２代目西川甚五郎</title>
<link>https://nishikawabunkazaidan.or.jp/business/koborebanashi/2026/122284/</link>
<description>
　現在、滋賀県に本店を置く唯一の地方銀行である滋賀銀行は、昭和８（１９３３）年に、彦根市に本店があった第百三十三国立銀行と近江八幡市に本店があった八幡銀行が合併して誕生しました。
　八幡銀行の設立は明治１４（１８８１）年で、滋賀銀行に至るまでの歴史は５０年余りとなります。その間、４名の頭取が経営にあたりましたが、うち２名は西川の当主、すなわち、１１代目西川甚五郎（第２代頭取、明治２４年～明治３８年）と、１２代目西川甚五郎（第４代頭取、明治４１年～昭和８年）が務めました。
　１２代目西川甚五郎は、昭和１１年６月、満６６歳となったのを機に自身が所有していた滋賀銀行の株式を西川商店の役職員に譲り、永年店務に精励してくれた労苦をねぎらうとともに感謝の気持ちを伝えています。その際の挨拶文には次のように記されており、八幡銀行の経営に心魂を傾けた心境がよく伺われます。
　「私が２９歳で家督を相続し、先祖代々の事業を継承してから、ここに３８年が経ちました。（中略）今や私も老境に達し、先日、家督を第１３代に譲りました。そして本日、誕生日を迎えるにあたり、その記念として、私が家業の傍ら生涯の努力を傾注してきた滋賀銀行の株式を皆さんに分配し、ささやかながらその労をねぎらいたいと思います。そもそも滋賀銀行の前身である八幡銀行は、亡き父重威が創立したものであり、私はその跡を継いで２６年間頭取を務めました。家業の傍ら、終始その経営に努力し、年ごとに隆盛に向かっていましたが、たまたま昭和８年１０月、時代の進展に伴って百三十三銀行と合併し、滋賀銀行と改称するに至りました。今や我が滋賀県唯一の金融機関としてますます堅実さを加え、信用も世間の定評があり、日ごとに繁栄を極めているところです。これは私の生涯を通じて最も心血を注いだ事業であるため、特に同行の株式を選んで皆さんに贈り、末永い記念としようとするものです。どうか皆さん、私のこの意図を汲み取っていただき、この株式を永久に保有して記念とするとともに、各自身を慎み、健康に留意してください。（後略）」
　「






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<dc:date>2026-06-30T09:00:00+09:00</dc:date>
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<p>　現在、滋賀県に本店を置く唯一の地方銀行である滋賀銀行は、昭和８（１９３３）年に、彦根市に本店があった第百三十三国立銀行と近江八幡市に本店があった八幡銀行が合併して誕生しました。</p>
<p>　八幡銀行の設立は明治１４（１８８１）年で、滋賀銀行に至るまでの歴史は５０年余りとなります。その間、４名の頭取が経営にあたりましたが、うち２名は西川の当主、すなわち、１１代目西川甚五郎（第２代頭取、明治２４年～明治３８年）と、１２代目西川甚五郎（第４代頭取、明治４１年～昭和８年）が務めました。</p>
<p>　１２代目西川甚五郎は、昭和１１年６月、満６６歳となったのを機に自身が所有していた滋賀銀行の株式を西川商店の役職員に譲り、永年店務に精励してくれた労苦をねぎらうとともに感謝の気持ちを伝えています。その際の挨拶文には次のように記されており、八幡銀行の経営に心魂を傾けた心境がよく伺われます。</p>
<p>　「私が２９歳で家督を相続し、先祖代々の事業を継承してから、ここに３８年が経ちました。（中略）今や私も老境に達し、先日、家督を第１３代に譲りました。そして本日、誕生日を迎えるにあたり、その記念として、私が家業の傍ら生涯の努力を傾注してきた滋賀銀行の株式を皆さんに分配し、ささやかながらその労をねぎらいたいと思います。そもそも滋賀銀行の前身である八幡銀行は、亡き父重威が創立したものであり、私はその跡を継いで２６年間頭取を務めました。家業の傍ら、終始その経営に努力し、年ごとに隆盛に向かっていましたが、たまたま昭和８年１０月、時代の進展に伴って百三十三銀行と合併し、滋賀銀行と改称するに至りました。今や我が滋賀県唯一の金融機関としてますます堅実さを加え、信用も世間の定評があり、日ごとに繁栄を極めているところです。これは私の生涯を通じて最も心血を注いだ事業であるため、特に同行の株式を選んで皆さんに贈り、末永い記念としようとするものです。どうか皆さん、私のこの意図を汲み取っていただき、この株式を永久に保有して記念とするとともに、各自身を慎み、健康に留意してください。（後略）」</p>
<p>　「</p>
<p></p>
</div>
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